想像と共感

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だいぶまえのことですが、ちょっとハッとさせられたこと。テレビ番組(すべらない話)での小籔トークで、師匠の井上竜夫(竜爺(たつじい))に母親の逝去を報告をした際「そうか…うちのネコも亡くなってん」と返答され、小籔が「猫といっしょにすんなーっ」と切れたという話。

わたし自身も相手が人間の話(子どもの話だったり親の話だったり)をしているときに、「あーわかる、うちも」と頷きながら対象を脳内で犬に変換してること、けっこうあるんです。

例えば、小さな子どもがいる友人が

「うちの親がねー、孫かわいくて、甘やかして仕方ないの。好かれたいもんだからむし歯になるようなお菓子たくさんあげちゃって」

と言っているとき

「うんうん(わかるわかる)」

と聞きながら、脳内ではわたしの父が犬たちにおやつをあげまくっているある日のことを思い出して共感していたり。

わたしは子どもがいないので、子どもの話題に関しては想像し、共感して話を聞いています。逆に、犬や猫と暮らしていないわたしの友人がわたしの話を聞いてくれるときは、脳内で犬や猫以外のなにかに置き換えてわたしの気持ちを想像し、共感してくれているのかもしれません。

もうひとつ思い出したことが。阪神淡路大震災でご主人を亡くされたおばあちゃん。数年後、震災後寄り添って生きてきた犬を亡くしてとても悲しんでいました。「おじいさんには悪いけど、おじいさんを亡くしたときよりも辛い」と泣いていました。

当然のことながら、おじいさんよりも犬を愛していたという意味ではありません。でも、世の中には言葉のとおりにとる人もいて、「そんなこといっちゃじいさん気の毒だ」などと言う人もいます。

震災でおじいさんを亡くしたときは大切な人を亡くした人たちが周りにたくさんいて、おじいさんを失った悲しさに対して共感してくれる人も大勢いた。共感してくれるひとたちと支え合って、おじいさんと共に愛情を注いできた犬とも、悲しさやさみしさも共有して寄り添って生きてきたんですよね。

その大切な犬を失ってしまったとき、おじいさんを失ったときのように共感して共に泣いてくれる人も少なかったことでしょう。犬を亡くしたときにいっしょに泣いてくれるはずだったおじいさんだっていない。

その喪失感たるや、想像するとおばあさんにかける言葉もありません。

他の人は、自分とは同じではないということはみんな頭ではわかっているはずです。心にあることを言葉にしたり文章にしたりするのが苦手な人もいるはずです。自分が経験したことがないことを想像もせずに否定したりせず、誰が何を大切に思っているか、お互いに想像力を深め相手を思いやって会話ができるといいのにな。

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